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劉源 2010年3月30日更新

劉源『凌煙閣功臣図』

【和:りゅうげん
【中:Liu Yuan
明・清|歴史人物|>劉源

陶政家。劉源の字は伴阮、号は恕庵または中原布衣。河南省祥符県の人で、後に鑲紅旗漢軍の八旗籍に入ったらしい。これはかれの著書である『凌煙閣功臣図』の自序に、「幼にして孤、食は貧、出でて郷塾に就き云々」とあり、次に「壬寅の秋、姑蘇に萍泊して寿民佟夫子の門墻に侍立し、一住すること六載」とある。壬寅は康煕元年で、姑蘇は江蘇省の蘇州で江南文化の中心地であるから、かれはここに来て佟寿民(満州八旗中の名家)の邸に六年間も寄寓していた。もしかれがもともとの漢軍旗人ならばなにかの官についているはずで、河南駐防八旅出身ならば、ことに自由に他郷には出られない。清初には南方の漢民族出身者でもしばしば漢軍八旗籍に入った者がある。
 かれは佟寿民(名は彭年)の家の客として六年もいたのであるが、この佟彭年がなにゆえにこの地に駐在していたかは不明である。おそらく蘇州は織物の中心地なので織造官として派遣されていたのであろう。曹寅(号は楝亭)なども漢軍旗人で、康煕時代に江寧(南京)の織造官をして多くの書物を刊行した。  劉源は山水・花卉・人物画その他に巧みなので、織物の図案画家として佟家にいたのであろう。かれは康煕元年(一六六二)から蘇州に往み、同七年に明の画人陳洪綬(字は章侯、号は老蓮)の『水漬伝』中の三六人の人物を図版として刊行したものをみて感服し、みずからは唐の太宗が功臣二四人を凌煙間に描かしめた故事により、これを細密な白描線画として観音大士像三葉と関帝像三葉を加え、『凌煙間功臣図』 一冊として翌八年に蘇州の朱圭が刊行した。清初の木版画としては精巧なもので、これを当時の大詩人である呉偉業(号は梅村)が賛辞を呈している。かれの画人としての地位も認められていたので、序文も沈白(康煕の書家として著名な沈筌の弟で画人)等がかいている。
 かれはこうした関係から佟氏に認められ、北京に連れられてきて内廷に奉仕することになった。そして旗籍にはいり官は刑部主事を与えられ、蕪湖・丸紅の税関の監督にもなったという。景徳鎮に御器廠が開かれることになると、陶器に用いる図様数百種を描いて奉呈した。これを考えれば康煕官窯の図様のほとんどはかれの描いた図様を基礎として製作されたものであることがわかる。かれは山水・人物・花卉弁等に巧みであるばかりではなく、各種の文様を描くことにもすぐれていた。これは染織文様をかくこともかれの専門であり、『凌煙閣功臣図』をみても一面は人物像であるが、一面はかれの筆になる篆書・行草書の賛辞で、その周囲には各種の文様を加えているのをみてもわかる。そして押してある各種の印章も自刻のものである。かれは太皇太后や皇貴妃の宝璽も刻しているので、篆刻も名人であった。そしてかれは蘇州にいただけに、紫檀細工や漆器にも通じ、宮廷の諸調度品の製作にはすこぶる貢献するところがあった。
 かれはこのようにして内廷の信任が厚く多才の人物であったが、子がなかったので死んだときには官から人を派してこれを葬らしたという。内廷には造弁所という工芸品の製作をつかさどる官署が置かれたが、かれの在世中にこの官署が設けられたか否かは知らないが、かれはこのような仕事を管理していたのである。生歿年は明らかでないが、明末に生まれ康煕年間の後期に歿したのであろう。出所:「清の官窯」
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