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筆の歴史 2009年7月2日更新

筆の歴史

【和:ふでのれきし
【中:Bi de li shi
彫刻・書画|>筆の歴史

硯・墨の項でも述べたが新石器時代の彩陶の文様、殷墟出土の陶片の文字などが毛筆によって書かれたものと推定できる。西安の半披遺趾から出土した陶片に文字とも記号ともわからぬものを刻した「刻号陶片」と呼ばれるものがある。刀で刻したか歌かいうちに木で刻したのか。刀筆または、木筆であると言える。殷代の甲骨文も刀で刻したものである。
周代の毛筆文字は戦国時代まで空白である。解放後に発掘された筆写資料をとり上げてみる。
一九六五年、山西省侯馬県牛村故城から、朱書した石簡・玉玦・玉片が発見された。戦国時代、晋の故の都曲沃に近い所である。牛馬を犠牲にして祭祝を行い、盟約を誓った書である。「侯馬盟書」と呼ぶ。B・C三八六年説(郭沫若)、前五世紀後半説(陳夢家)の二説がある。
一九五七年、河南省の信陽県長合関の木槨墳から竹簡が発掘された。信陽楚簡といわれる。「侯馬盟書」よりは時代が少しくだるのではないかといわれている。 一九七四年に発掘された河北省平山県の中山国(B・C四〇九ーB・Cニ九六)の三基から墨書した玉環、玉琥、玉珩などの玉製の装身具が出土した。
これらの文字はともに柳葉線構築の古文体で、共通するところがある。一九五四年湖南省長沙近郊の左家公山で戦国時代の楚(B・C七九〇ーBC二二二)墓から竹筒・帛書とともに等が出土した。「長沙筆」と言われる。
長沙筆
筆管は木で峰は兎毫である。管の先に毛を捲ききつけて上から細い糸(絹であろう)で縛り、漆で固めている。管の長さ約一七センチ、鋒長二・五センチ、管の径は〇・三―四センチ(推定)の細いものである。模造品を見たが管が曲っていた。もとは直だったのだろう。この筆を入れる筆管があった。
一九七五年、湖北省雲夢県睡虎地第一一号秦墓が発掘され、秦代の竹簡一子余点が出土した。その中に石硯や墨はあったが、筆の報告はない。現在のところ、硯・墨の最古の資料である。
一九七三年に湖北省江陵県鳳凰山一六八号漢墓から文房用品が発見された。墓主は「嬰遂」と呼ばれた男で漢の文帝の十三年(B・C一六七)の五月に埋葬されたものだった。円石板硯・硯石・墨・削刀が伴出している。削刀は青銅の小刀で柄に環がある。環は帯につるためであり、刀は木・竹簡に書き損じた時削り取るためのものである。(当時の書記の官吏は筆と削刀を携えたので、刀筆の吏と言う)
江陵等一号
筆は管が竹で長さが三四・八センチ、先に穴をあけて毛を挿しこんでいた。上端は細く削っている。毛を入れる穴の径は〇・五センチ、深さは〇・六センチあり、毫は朽ちていた。筆を収める竹管は長さ二九・七センチあり、径が一・五センチのもので節から節までの中央部に幅一・三センチ、長さ八センチの口孔を作っていて、そこから差し込むようになっていた。この筆は既に現代の筆と構造は同じものになっていることがわかる。名称はないが仮りに「江陵筆」としておく。一九七五年に同じ鳳凰山一六七号漢墓から毛筆が発現した。
江陵筆二号
筆管は竹である。全長二四・九センチ、毫が残っていて墨を使った痕跡が残っていた。これにも一号と同じような収筆管があった。
一九三〇年にスウェン・ヘディンを団長とした中国とスウェーデンとの合同による西北科学考察団が組織され、三一年にかけて西域地方の探査をした。
長城外のエチナ川流域のカラホト(中国名黒城)付近で漢代の張掖郡居延県城と推定される遺趾を発掘して一万余点の漠代木簡を発掘した。「居延漢簡」と呼ばれる。この出土品に筆があった。「居延筆」という。
居延筆
木簡の年代から推定して西漢後期(B・C一〇〇)―東漢前期(A・D1OO)の間のものと思われる。筆管は木で四つ割りにして毛を挟み、麻糸で縛り、漆で根元を固めている。管長二一センチ、径○・六五センチ、穂の長さー・四センチで使用の長があり根元が白く、先に墨のあとがある。剛毛の芯に柔毛を被せている。
一九五七年、甘粛省武威県磨咀子の第二号漢墓が発掘され、 筆が出土した。「武威筆」とする。墓は王莽時代(A,D八―ニ四)―後漢初期(A・D五〇)のものと推定される。
武威筆
筆管は竹。穂先が失われていて筆管だけである。
長さ二〇・九センチ、上端を削って細くしている。
下端の径〇・七センチ、毫をさしこむ穴があり、径○・六七ンチ、深さー・六センチある。筆管の下端一・六センチほどを細い糸で捲き外を漆で固めている。もとは二、三センチ程あったらしい。その下に史虎作の三字を刻している。筆匠名のある最古の例といえよう。
朝鮮平壌付近の漢代楽浪郡遺跡を一九三二年に小場恒吉氏等が調査し、貞柏里一二一号墓から毛筆の鋒の出土が報告されている。
筆の始祖を奏の蒙恬とする俗説があるが、出土資料によって秦以前に筆が存在していたことは実証されている。改良したぐらいのことであろう。宋の蘇易簡の『文房四語」に昔、蒙恬の秦筆を作るや柘木(桑の類)を管となし、鹿毛を以って程とじ、羊皮を被と為す。所謂、蒼毫なり。兎毫竹管を謂うに非ざるなり。と言っているが、既に漢の司馬遷が「史記』で始皇、(蒙)恬と太子扶蘇をして長城を築かしむ。恬、中山の兎毫を取って筆を作り、案を判ぜしむ。
とあって兎毫を否定することにはならない。兎毫は長沙筆から使われているので改良したとすれば毫の毛を変えたか、毫と管との結合の方法を変えたかであろう。
鋒の形は円雑形で中鋒(径と長さの割合が一対二)だったろう。殷墟の陶片文字や長沙の竹簡文字、中山国の玉器文字など柳葉線構築だからである。青銅器銘文などの様状線構築の文字を書くには円筒形に近い筆や藤枝教授説(墨美九二号)の刷毛に類する扁平形の筆を使ったかもしれない。毛の種類については兎・鹿・羊・狐・狸などのものを使用したことは晋の張華の撰といわれる『博物志』などによって知られる。
筆の原字は「聿」である。漢の許慎の『説文』では楚、これを聿といい、呉、これを不律といい、燕、これを弗といい、秦、これを筆という。とある。「不律」「弗」などは国によって違う発音を文字で表したので、原字は「聿」をそう読んだのではなかろうか。所変れば品変るで形も変っていて名も違ったのかも知れない。呉や燕の出土品が見たいものである。
秦代に聿に竹冠をつけ筆とした。竹管が多くなったからということも考えられるが、新字制定がさせたとも言える。奏の始皇帝は春秋戦国時代にそれぞれの国で花開いた文化を統一せざるを得なかった。焚書坑儒もその一つだが、度量衡の統一、文字の統一があった。秦篆や隷書を作ったといわれる。秦篆としての新字が筆だったのだろう。言語が統一できないように文字も制定しても日常使用の間に乱れていく。秦篆で統一されていなかったことは出土の秦墓竹簡や馬王堆の帛書などが証明している。
秦代の刻石に先奏の石鼓文、秦の泰山刻石、瑯椰台刻石(現存)などがある。日常文字は細字全センチ四方)であるが、これらの文字は中字(縦横七×四センチ)である。かなり太い筆が作られていたと思える。
漢代には紙が作られ、書写面が帛・竹簡・木簡から紙に変る。木簡類は縦二三センチ、横一センチのものでこの中に文字を書いた。紙になると幅が広くなるので文字の造形が横広になる可能性が出てくる。泰代の篆書が縦長の造形であるのに対して漢代の八分が横幅を拡げろ造形になったのは紙の発明が影響していると言える。その例が敦煌簡(一九〇六年頃、スタインが敦煌付近で発掘した木簡類をいう)の三角堆柱状の駅といわれるものに「急就章)を八分体で書いたものがある。両斜面は狭く裏に当る底面は幅が広い。両斜面の文字は縦長で底面の文字は扁平体である。 運筆にも当然変化が起こり、古隷の直行性から八分の波状性に移行していくのである。必然的に筆には弾力に富むことが要求されただろう。
前漢の麃孝禹刻石(河平三年。B・Cニ六)は縦横八×三・五センチの大字であるし、 後漢の大吉山買地記(建初元年。A・D七六)は一〇×一五センチの大字である。こうした大字用の筆が作られていたのである。
前に書いた敦煌簡の中に帳簿の表紙(板)にしたと思われる牘と呼ばれるものがある。始建国天鳳元年(A・D一四)の年款があるが、この最後の「簿」字の寸の縦画をグーンと長く伸ばして左に太く狸の尻尾のようにはね出している。これは急に太くできる穂先の筆であることを物語っている。何か理由があると思われるが縦に引く終筆を長く引き伸ばし終わりを太くした例はかなり多い。
蔡邕(一三四―一九ニ)の『筆賦」に紫毫(兎の背筋にある黒い毛」や筆管に斑竹を使用したことを記してあるし、張芝は鼠鬚筆を使用したという。この鼠鬚筆は東晋の王羲之が蘭亭叙を書いた時に用いたことも知られている。鼠は栗鼠だとも言うが、明らかでない。漢末には筆管に象牙を使う数寄者もいたという。
後漢代の王得元墓、郭稚文墓などの墓門の陽刻文字は縦画・横画が同じ太さで現代のゴジック体の先声の感がある。こうした文字は恐らく平筆か刷毛のような筆で書いたものだろうと思われる。
三国時代の魏の韋誕(一七九―二五三)に『筆経』の著があり、巻芯法の製筆を述べている。筆の芯に紙や絹を使い、周囲に毛を巻く筆で、この製年法は我国でも明治初期まで続いている。
南北朝時代に入ると、雞や雉の羽毛による筆も作られるようになったらしいことが前記の『博物誌』にある。
この時代の写経類が二十世紀に入って敦煌石室から発現した。これ等の書に見られる細い線から急に太い線に転じる表現は鋒の形が蕪状(雀頭筆)であっただろうことを思わせる。柳葉線構築のもの(老女人経)もある。細い線で細太の変化の少ないものもある。柳葉筆・面相筆などの存在を想像させる。
陳の智永は千字文八百本を書いて江東の諸寺に配ったと言われるが、その禿筆を瘞めて退筆塚を造ったともいわれる。筆塚の嚆矢であろう。
この時代の石刻文字に泰山金剛経がある。山東省泰山の渓谷の岩盤に五〇センチ四方の大字を刻している。点画の幅も五センチある。(石が欠けて太くなっているのであろうが)こんな超大字を書く筆もできていたのである。何本もの太筆を束ねても可能であるが どのような毛をどのようにして束ねたか知る術もない。
唐代に入ると英主太宗のもとに欧陽詢虞世南褚遂良などの初唐の三大家が出て楷書の典型といわれる書を遺している。書から見ると弾力の利く剛毫だったと思われる。褚遂良が晩年に書いた雁塔聖教序や房玄齢碑には等の舞うような飛動があり兼毫の趣きを思わせる。
太宗は晋詞銘を行書で書き、碑刻にはじめて行書を使う先鞭をつけたが碑額に飛白を取り上げた。飛白は南北朝時代から雑体書という装飾体の文字の中にあったが、それを碑額に用いるという先例を作った。この飛白書は刷毛状の事で書いたと思われる。飛白体はかなり流行したらしく、中唐時代に入唐した空海がこの書法を駆使して書いた七祖像並びに賛が肉筆の例として残っている。空海はまた製筆法も研究したらしく、帰朝後、その製法を教えて作らせた筆を嵯峨天皇に献上した。狸毛筆奉献状があり、そのことを証明している。中唐の斧陽冰は散卓筆(芯のない毛ばかりの筆)を使ったという。
中唐代の筆の状態を知るには正倉院蔵の筆によるほかはない。現存の伝承筆として最古のものである。筆管、筆帽、軸端等既に巧緻な細工が見られ、工芸技術が筆の生命とする鋒のみでなく管に及んでいることを見せている。ただこれらの筆がほから舶載したものか、朝鮮(新羅)からのものか、日本製であるかは明らかでない。大仏開眼の筆と未完成の筆管を別にして一七枝(本)あるが、墨の例のように唐筆・新羅筆・和筆が混在しているであろう。唐筆の可能性が強いと思われるものに紫檀頭、斑竹管、帽欠今補之。管長一九・八センチ、径一・八センチがある。他に牙頭の筆が六枚ある。象牙も日本には産しないから舶載を思わせるが、象牙を輸入して加工したとも考えられる。毫は原形を止めていない。
『文房四譜』に唐代の文房四宝に関係する文学作品を収録しているが、筆に関したものでも二〇項もある。主
僧貫体:詠筆詩
韓 愈:毛頴伝
陸亀蒙:石筆架子賦、哀茄茄筆工辞
段成式:寄余知古秀才散卓筆十管軟健筆十管書
寄温飛卿葫蘆管筆二首。
文嵩四侯伝(管城侯毛元鋭伝)などといったものがある。韓愈の『毛頴伝』は筆を人物に見立ててその伝記風に書いた一種の戯文であるが、それを受けているのが文嵩『四侯伝』で筆の外に
硯:即墨侯石虚中伝。
墨:松滋侯易玄光伝
紙:好畤楮知白伝
を書いていて、それぞれ面白い。
店に続く五代(後梁、後唐、後秦、後漢、後周。九〇七―九二九)は半世紀に五王朝が交替する短命王朝であった。正統王朝としての誇りはあっても実権の及ぶ範囲は河南省を中心とした一部であって、中国全土には十国が割拠して興亡した。文化的にすぐれていたのが南唐、呉、越、前・後蜀で、文化人が出て後の宋代初期に活躍することになる。
南唐は三主(李昪・李璟・李煜)三九年の王朝だったが文墨趣味の皇帝で功績を残したことは既述した。
筆については李後主が玉の筆管に「建業文房」にと刻させたという。 宋代にはいると学問芸術が発達し、欧陽脩、蘇軾、黄山谷、米芾蔡襄などの文人が競って文房用品の精を求めて文人の安房清供の基盤を作った。蘇易簡の『文房四譜』をはじめとして筆、墨、硯、紙から怪石、香、茶に至るまで専著が出た。 清の梁山舟の著『筆史』はこれら文人の言行を記している。当時の名筆匠諸葛高の筆を愛用し、称揚したものが多い。......出所:『文房古玩事典』宇野雪村
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