考古用語辞典 A-Words

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宋襄公  2008年08月19日(火)更新

宋襄公
【和:そうじょうこう
【中:Song xiang gong
春秋戦国|歴史人物>宋襄公

(?~前637年)
 宋は小さな国だが、地理的には中原の中心にあり、君主は殷の最後の王、紂王の弟を初代とし、周王朝の最高の爵位である公爵の位にあった。襄公は二〇代目である。殷の末裔であるというプライドが、襄公の行動の基本にあつた。
宋の一九代、桓公(斉の桓公とは別人)の太子は、茲甫といった。桓公にはほかに側室の子、目夷がいて、彼のほうが年上だった。桓公が病に倒れると、茲甫は兄の目夷に後継者の座を譲りたいと申し出た。遠慮したのである。だが、桓公はこれを認めなかった。さらに、目夷は「国を他人に譲るなど、これほどの仁は他にありません。これは臣にはできないこと。さらに、庶子である私が立つのは順当ではありません」と言って、辞退した。
こうして、茲甫は桓公が没すると、公になった。前六五一年のことで、これが襄公である。兄の目夷は宰相として、襄公を支えた。前六四三年、斉の桓公が亡くなった。後継者を巡り内乱状態となっていたが、宋の襄公は生前の桓公から太子の昭の後見人を頼まれていたので、諸侯に呼びかけて斉に進軍し、昭を即位させた。キングメーカーとなったのである。それまで謙虚だった襄公は有頂天になり、斉の桓公がつとめていた覇者になるのは自分だと思い込む。
その四年後、襄公は諸侯に会盟を呼びかけた。そこで覇者になろうと考えたのである。だが、宋はあまりに小国だ。そこで、大国である楚の後ろ盾を得ようと、同盟を求めた。宰相の目夷は小国の身で覇者になろうというのは禍のもとだと諌めたが、襄公はこれを無視した。
ときの楚の王は成王である。宋の襄公の申し出を受け入れ、いざ、前六三九年、宋は楚、陳、蔡、鄭、許、曹の六国と会盟をおこなうことになった。ところが、その襄公は覇者に推挙されるどころか、同盟を結んでいたはずの楚の成王に捕えられてしまう。最初から弱小国の宋を覇者と認める気などなかつたのだ。襄公は、あまりにも世間知らず、いまでいう「おぼっちゃま」だった。
どうにか釈放されると、襄公は逆恨みして、鄭に攻め入った。鄭は楚に援助を求める。待ってましたとばかりに、楚は宋への侵攻を開始した。宰相の目夷は勝ち目がないと諌めたが、襄公は迎え撃つことにした。
宋軍は、臥水の河畔で楚軍を待ち受けることにした。予想どおり、楚の大軍が押し寄せ、川を渡り始めた。だが、大軍なので、全軍が渡り終えるまでにはかなりの時間がかかりそうだ。目夷は進言した。 「敵が渡り終える前に攻撃すべきです」だが、襄公は攻撃を指示しない。そのうち、楚軍は渡り終え、いよいよ陣を整えだした。目夷はまたも進言した。「敵が陣容を整えている間に攻撃すべきです」数の上で圧倒的に劣勢である宋軍が勝つには奇襲しかない。だが、襄公は、「敵の布陣が整うまで待つ」という。奇襲は卑怯だというわけだ。「君子たるもの、ひとの苦境に乗じるものではない」戦いが始まった。宋に勝ち目はなかった。襄公も股に傷を負い、敗北した。その翌年、この臥水での傷が原因で襄公は亡くなった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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