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周武王  2008年08月18日(月)更新

周武王
【和:しゅうぶおう
【中:Zhou Wu wang
殷・周時代|歴史人物>周武王

(前一一〇〇年頃)
 周王朝の創始者。姓は姫、諱は発。文王の第2子ということで仲発とも呼ばれる。殷の最後の帝辛(紂王)を滅ぼし、周を立てた。
志半ばで亡くなった周の文王には息子が多かった。そのなかで後を継いだのが発(武王)である。父の代からの軍師である太公望と、弟の周公旦という二人のブレーンの存在が大きいこともあって、武王は少し影が薄い。だが、この有能な二人をうまくつかいこなしたのだから、武王は、リーダーとしての器が大きい人物だったともいえる。
武王は父の後を継いで即位して九年目に、その父を葬った地に赴き、霊を祀った。そして、父の位牌を司令官が座るべき場所に置いて、出陣した。つまり、この出兵は父である文王の意思によるもので、自分だけが決めたものではないと示したのである。
太公望の指揮のもと、周軍は進軍した。
黄河を渡ったとき、武王の乗る船に白い魚が飛び込んだ。武王はそれを捕えて神に捧げた。黄河を渡りきると、火の玉のようなものが飛んできて、武王の座所の近くにとまった。よくみると、赤いカラスだった。中国では王朝ごとに聖なる色を尊ぶという風習がある。白は殷の色だった。そして、周の色は赤。これは殷が滅びて周の時代になることの予言ではないのか。
周軍に参集してきた諸侯は、いまこそ紂を討つときだと進言したが、武王は「天命はまだ殷を離れていない。早まるな」と言って、軍を引き揚げた。前述のとおり、このときは殷にまで進軍する予定はなかった。諸侯の動向をさぐるための出陣だったのだ。もつとも、思ったほど各地の部族の長が集らなかったために、思いとどまったとの説もある。
そして二年――‐武王はふたたび挙兵し東に向かった。決戦となつたのは現在の河南省にある牧野という地である。兵力では殷が圧倒的に優位だったものの、殷の兵士の多くは奴隷だつたので忠誠心などない。それどころか、殷の紂王が負けることを望んでいたので、勝負はあっさりついた。紂は敗北を知ると、王宮に火をかけ、財宝を身につけ、炎の中に身を投じた。哀れな最期だった。
武は牧野から殷の都、朝歌に入り、翌日、殷の宮殿で即位の式典を挙げた。こうして、またも天命は革まったのである。
武王は太公望と弟の旦の助言のもとに戦後処理を見事におこなった。戦った諸侯には公平に論功行賞をし、紂王によって獄に入れられていた殷の臣下たちを釈放した。また殷が貯め込んでいた食糧は、貧しい人々にわけあたえた。功の大きな太公望には斉の国、旦には魯の国を封じた。だが、武王の命はそう長くなく、二年後に病死してしまった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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