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則天武後  2008年08月15日(金)更新

則天武後
【和:そくてんぶこう
【中:Ze tian wu hou
隋・唐・五代|歴史人物>則天武後

(六二四~七〇五年)
 中国史上、唯一の女帝。六四九年に太宗が亡くなると、その九男で皇太子だった21歳の李治が皇帝に即位した。高宗である。太宗の晩年は贅沢になったり無駄な工事をしたりと、あまり誉められたものではなかったが、帝国は安定していた。民衆の生活水準もあがり、行政も滞りなく機能していた。したがって、誰が皇帝になっても国は自然に動いていたのである。
太宗晩年の後継者をめぐる混乱のすえ、九男の李治が皇太子になったのは、有能だったからではなく、お人よしだったからに他ならない。皇后の実家、外戚にとって、あまり聡明な者が皇帝になられてはやりたい放題ができない。唐もまた外戚支配が始まりつつあったのだ。だが、外戚の思惑はひとりの女性の登場で大きくはずれてしまう。前皇帝・太宗の後宮にいて、その死後は尼となっていた武照である。
武照は唐建国に功績のあった、家臣の娘で、 一四歳で太宗の後宮に入った。その位は低かったので、実際に太宗の寵愛を受けた可能性は低いとされている。彼女と、太宗の子である李治とがいつどう出会ったのかは、はっきりしないが、太宗が亡くなったのが六四九年で、武照は六五一年か二年には皇帝となつた李治(高宗)の後官に入り、その寵愛を受けるのである。この時点で、彼女は二〇代後半。後官に入ってすぐに男の子を産んだ。
ここからは「女の戦い」となる。高宗の後宮では、皇后の王氏と、側室の蕭氏の二人が競い合っていた。それに乗じて、武照は高宗の寵愛を一身に集めることに成功した。それから陰謀が始まる。外戚・王一族の専横を快く思わない官僚の一部を味方に引き入れると、自分が産んだ女の子を自ら扼殺し、皇后が嫉妬して殺させたに違いないとの風評を立てさせ、ついに王氏を皇府の座からひきずりおろした。そればかりか、王氏を死に追いやり、その一族はことごとく左遷され、なかには謀反の疑いがかけられ自殺に追い込まれたものもいた。側室の蕭氏は両足を切断されたうえに酒かめに投げ入れられ、死んだ。こうしてライバルを粛清し、高宗を説得し、皇后になつた。六五五年のことである。
皇帝・高宗がおとなしく優柔不断な「善人」で、なおかつ病弱であったのをいいことに、武照は実質的な権力を握り、朝廷には二人の皇帝がいる状態となつた。この時代の政治を表現する言葉に「垂簾の政」がある。皇帝の玉座のうしろに簾があり、その裏に武皇后がいて、皇帝に指示を出していたのだ。実際、彼女には指示を出せる能力があった。武照は普通の皇后ではなかった。その政治センスは皇帝の高宗よりもはるかに高かった。まず、人材を見極める能力があり、貴族出身の官僚を斥け、能力のあるものを登用していった武照がいつから自ら皇帝になろうと思うようになったのかは、よく分からない。当初は、高宗が亡くなったら、自分の子を帝位につけ、操ろうと考えていたようだ。六五五年に皇后になると、その翌年に前皇后の子を廃位させ、自分の子を皇太子にした。やがてその息子は頭もよく性格もよく、人望のある青年に成長した。普通の母親ならば喜ぶところだが、彼女は違った。自分の敵とみなし、六七五年に毒殺してしまうのだ。
づいて、次男を皇太子とするが、これも廃し、三人目の子李顕を皇太子にした。そのころには、さすがの高宗も、武皇后をどうにかしなければと考えていたようだが、もはやどうしようもなかった。
六八三年、高宗が亡くなり、皇太子の李顕が皇帝に即位した。中宗である。だが、中宗は父と同じでひ弱で、皇后・韋の言いなりになり、彼女の父を宰相に任命してしまう。武照は怒り、六週間で中宗を廃位させ、その弟・李旦を皇帝とした。叡宗である。
叡宗は三二歳だったが、母・武照のいいなりで、実質的に幽閉されていたようなもので、朝廷に姿を見せることもなかった。高宗の時代は、少なくとも前面には出ていなかった武照は、ここにきて、公然と表に出るようになった。この時点で、武照が皇帝の座を意識していたのは確実である。天命がおりることを演出するため、まず、古代の周王朝の天子が政務をとつたとされる明堂を復元させ、女帝の出現を予言した文書が仏典にあると喧伝するなどし、ムードを高めていつた。
六九〇年、叡宗は退位させられ、ついに武照は自ら皇帝(諡号は、則天大聖皇帝、 一般に則天武后と呼ばれる)になり、国号は「周」となった。ここにいつたん、唐帝国は消滅したのである。皇后になつてから三五年の歳月が流れ、彼女も六〇歳をこえていた。
則天武后が皇帝になれた理由はいろいろあるが、まず、敵になりそうなものはすべて粛清されていた。密告制度を設け、徹底した恐怖政治を敷いていたのである。その一方、国政そのものはうまく機能していたので、民衆のあいだに不満はなく、治安も安定していた。
だが、うまくいつている時期はそう長くはなかつた。歴代の皇帝と同様、老いるにつれ、彼女も判断力がにぶってしまつた。若い愛人ができ、彼らが勝手にふるまい、朝廷の金を浪費しても諌めることはなく、官僚たちからの信望が薄れていつた。そして、七〇五年、クーデータが起き、愛人は殺され、則天武后も退位を迫られ、それを受け入れた。かつて六週間で皇帝の座から追われた中宗が二一年ぶりに皇帝に復位し、唐王朝は復活した。それから間もなくして、則天武后は生涯を閉じた。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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