考古用語辞典 A-Words

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隋文帝  2008年08月10日(日)更新

隋文帝
【和:ずいぶんてい
【中:Sui wen di
隋・唐・五代|歴史人物>隋文帝

五四一~六〇四年
南北分裂に終止符を打った隋の初代皇帝
 隋の初代皇帝。姓は楊、名は堅。北魏が東西に分裂した際に、西魏(後の北周)の一二大将軍のひとりだった軍人の孫にあたる。北周の有力な貴族で、仏教徒でもあった。兵法を学び、武官・文官として北周あたる。北周の有力な貴族で、仏教徒でもあった。兵法を学び、武官・文官として北周の朝廷に仕えていた。その娘が太子・宇文贇の后になったことで、彼に皇帝へのチャンスがめぐってくる。
五七八年、北周の武帝が急死し、字文贇が皇帝となった(宣帝)。楊堅は外威となったのである。だが、若い宣帝は政務にまったく関心を寄せず、翌年、七歳の子に帝位を譲ってしまつた(静帝)。さらにその翌年、宣帝は精神を病み、ニ二歳で亡くなった(楊堅が殺したという説もある)。宣帝が死にそうだとの知らせを受けた楊堅は、存命中に官廷に駆けつけ、詔勅を偽造し、自分を静帝の後見人としてしまう。
楊堅は権力を掌握すると、自分に反対する者を粛清していき、五八一年、孫にあたる静帝から譲り受けるかたちで、皇帝に即位した(文帝)。それとともに、国名を隋とし、ここに、隋王朝が建国されたのである。隋は華北を統一していた北用を乗っ取り、その版図をそのまま引き継いだわけだが、南にはまだ陳が健在である。隋は五八九年に南征に出た。陳の皇帝は後主で、遊興にふけり、政務は宦官にまかせ、国は乱れていた。民心は皇帝から離れていたので、南朝はあっけなく倒れ、ここに三百年に及ぶ南北分裂の時代に終止符が打たれた。
久しぶりの統一帝国となつた隋の前には、平和を確立し、荒廃した国土を再建するという大きな使令が待っていた。文帝はこれに全力を注いだ。戦乱の時代、各地に創設されていた私設の軍隊に武装解除させ、兵士を自作農として定着させた。 一方で、北方の備えの万里の長城の修復を始め、また、運河の拡張による交通・流通網の整備に着手した。
行政面での改革では、科挙制度の創設をした。北朝はずっと皇帝と同姓の一族や貴族を高級官僚に起用していたが、公平な学力試験によつて有能な人材を登用することにしたのである。縁故採用をやめたわけで、それまでは旧北の者しか登用されなかつたが、旧南出身者にも出世の道を開かせることになつた。その意味では科挙は画期的な制度だったが、弊害として、いわゆる「受験戦争」を生むことになる。文帝という諡号が示すように、単に「建国の父」であるだけでなく、政治家としても、実績を残した。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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