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拓本 2007.05.04更新

拓本

【和:たくほん】
【中:
彫刻・書画>拓本

  文字・文様は紙に書かれたものだけではない。紙以外に金属や石に、ときとして木に刻まれた文字・文様がある。これを金石文という。この金石文を墨を用いて、紙の上に写し採ったものが拓本である。 
  拓本の技術は、中国で始まったことはいうまでもない。では、いつ頃のことか、というと定かではない。かつて唐の太宗の自作、自筆の「温泉銘」という碑があった。この温泉は長安(今の陝西省西安)の臨潼(りんどう)県の驪山(りざん)の西北麓にある秦の始皇帝以来、歴代皇帝が遊んだ温泉のことで、太宗は即位後いくたびかここに行幸し、貞観18年(644)、湯泉宮を設け離宮とした。のち、玄宋皇帝は大改築を行い華清宮とし、楊貴妃と遊楽に耽ったことでも有名である。「温泉銘」の碑は、この温泉の霊効と風景を記したもので、貞観22年(648)、この離宮に建てられた。しかし、この碑は早く逸したらしく、宋時代の文献にその名を留めるのみであった。
 清の光緒34年(1908)、フランスのペリオにより、敦煌石窟から搬出された敦煌文書の中に、この「温泉銘」の拓本があり、拓本は剪装(せんそう)巻子本で、その巻末に永徽4年(653)の年号を記した墨書があった。これが中国の拓本の現存最古の例である。また、この拓本により、初めて「温泉銘」の碑銘の内容が知られるところとなった。
 ところで、剪装本の「剪」は「きる」という意味である。拓本の形態には剪装本と全套(ぜんとう)本がある。拓本はその対象となるものが碑であれば、どんなに大きな碑であっても、碑全体に紙を継ぎ合わせて貼り、全面に墨をつける。この大きな1枚の拓本を全套本という。例えば唐の武后聖暦2年(699)に建てられた、則天武后の撰書になる「昇仙太子碑」の全套本の大きさは、かの有名な飛白(ひはく)の題額を含め縦約4m、幅約1.6mに及ぶ。これを壁に掛けて、あるいは床に広げて見るといっても容易なことではない。
 拓本は何の為に採られ、使われるのであろうか。先ずは鑑賞である。名筆家といわれる人の手跡は、その文字そのものが鑑賞の対象になる。肉筆の書は場合は、その書1点限りであり、その複製として考え出されたのが双鉤填墨(そうこうてんぼく)である。これは肉筆の書に上に薄紙をあて、細筆で文字の輪郭をたどり、双鉤、いわゆる篭字を作り、そこに墨を填(う)めていけば、書の複製が出来上がる。東晋の王羲之の書として著名な御物「喪乱帖」は双鉤填墨本である。金石文であれば、いくらでも拓本の採ることができる。しかし、昇仙太子碑のように大きな拓本では、拓本の隅々まで目を配るのは困難である。そこで考え出されたのが、剪装本である。先ず、全套本の文字の1行1行を帯状に切っていく。次に、この帯状に切った拓本を、文字の大きさによるが、6~10文字の一定の字数で短冊状に切り、5~6行ずつ帖に貼り込んでいく。こうすれば、全套本としての形は崩れるが、銘文はそのまま読め、文字も手元に引き寄せ、間近に見ることが出来る。また、書物と同じように好きな所を開いて見ることが出来る。そこで、話は唐の太宗の「温泉銘」に戻るが、この碑が建てられたのが貞観22年(648)、敦煌発見の拓本の永徽4年(653 )の墨書はそれからわずかに5年後のことであり、さらに、剪装本に改装され、長安よりはるか西の辺境の地にもたらされたということは、拓本が広く行われ、それをコンパクトに利用する剪装本に仕立てることが普及していたことがわかる。日本では、中国ほど大きな碑はないので、剪装本にすることはない。
 鑑賞につぐものとして、書の手習いとしての手本である。やはり、書を習うには名筆家の書を手元に置いて、臨書することは古来から行われてきたことである。
 しかし、拓本は鑑賞、手本として用いられるだけではない。金石文は史書の欠を補う歴史資料として重要な役割を果たしている。また、文字研究の資料としても貴重な存在である。中国では、唐、宋時代になると、古代の青銅器に刻まれた金文、秦の篆書、漢の隷書などに目を向け、研究の対象とするようになった。紙が出現する以前、文字は竹簡、木簡、絹に書かれるか、石に刻まれるかした。今でこそ竹簡、木簡、絹に書かれた帛書(はくしょ)が多く発見されているが、唐、宋時代には文字資料といえば石刻文字に頼らざるを得ず、拓本を必要とした。
 日本に拓本がもたらされたのは、いつ頃のことであろうか。平安時代初期、円仁(798~864)の将来目録『入唐新求聖教目録 』には、「紫閣山莫碑一巻 沙門飛錫撰」「五台山大暦霊境寺碑文一巻」その他の碑銘が散見し、恵運(798~869)、円珍(814~819) 、宗叡(809~884)の将来目録にも多くの碑銘が記載されている。これらの碑銘は、7世紀半ばの唐に於いて拓本を採ることが広く行われていたことをみれば、多くの碑銘の拓本が将来されていたとみてもよかろう。

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