考古用語辞典 A-Words

時代別順

旧石器時代
新石器時代
神話時代
殷・周時代
春秋戦国
秦・漢・三国
晋・南北朝
隋・唐・五代
宋・遼・金・元
明・清

分野別順

基本用語
青銅器
陶磁器
金銀・玉器
石器・ガラス
彫刻・書画
絹・衣類
建造物・遺跡・墓
歴史名城
歴史人物
研究機関
研究者
面白テーマ

承德避暑山庄 2007.03.21更新

写真集を見る
承德避暑山庄

【和:しょうとくひしょさんそう
【中:Cheng de bi shu shan zhuang
明・清>承德避暑山庄

 避暑山荘は承徳離宮という別称があり、熱河行宮とも呼ばれ、河北承徳市中心区の北部にある。清朝の皇帝が夏季に避暑し、政務をとるところである。清の康煕四十二年(1703年)に着工し、乾隆五十七年(1792年)に峻工した。総面積は564万平方メートル、建築面積は約10万平方メートル、建築物は110余棟、えんえんと起伏する塀は長さ10キロもあり、中国に現存する最大の古代帝王の行宮である。
 避暑山荘は素朴、淡雅の山村野趣を格調とし、山水の本来の姿を保ち、長江以南と長城以北の風光を吸収して、大規模の王室庭園をつくった。宮殿は北部民家の四合院の形式で建てられ、黒い煉瓦と瓦を使い、石灰で継ぎ目を塗り、彩色の絵を施していない。
 避暑山荘は宮殿区と苑景区の二大部分に分かれ、宮殿区は皇帝が朝政を処理し、祝典を行い、日常起居をとるところで、面積は10万平方メートル、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の四組の建築からなっている。苑景区は湖洲区、平原区、山巒区に分け、湖洲区は長江以南の物産豊かな土地の特色に富み、北東の隅に清らかな泉つまりかの有名な熱河泉がある。平原区の西部は一面緑の草地で、蒙古草原の風光を呈し、東部では古木が高くそびえ、大興安嶺の際なく広々とした森林の景色を呈している。山巒区では丘が起伏し、樹木が生い茂っている。
 避暑山荘の東と北の山麓には雄大、壮観な寺廟群が分布しており、外八廟と言って、康煕五十二年(1713年)から乾隆四十五年(1780年)までの間に陸続と建立されたもので、溥善寺、普寧寺、須彌寺之廟、普陀宗乗之廟、殊像寺の八つである。外八廟は漢代式の宮殿建築を基調とし、蒙古、チベット、ウイグルなど諸民族の建築芸術の特徴を吸収して、中国の多様で統一された寺廟建築の風格をつくり出した。
 外八廟の主要な建築は、普楽寺、普寧寺、須彌福寿之廟、普陀宗乗之廟である。普楽寺の主体建築である旭光閣は、丸い屋根には二重のひきしで、造形が優美であり、北京の祈年殿に似ている。普寧寺は大乗之閣の千手千眼観音菩薩は高さ22.23メートル、重さ110トンで、世界最高最大の木製彫像である。普陀宗乗之廟はラサのポタラ宮の形と構造をまねて建立されたもので、小ポタラ宮と呼ばれている。

  清の康煕12年、呉三桂ら3人の藩主が挙兵しました。「三藩の乱」と言われるものです。わずか20歳だった康熙帝が指揮を執り、乱を収めました。この乱において康熙帝は、武勇で名高い「八旗官兵」が長年の平和の中ですっかり闘志を失っていることを強く実感し、承徳から北300里の場所に狩猟地を作りました。毎年秋には皇帝自らが王侯大臣らを率いて同地に赴き、自分で弓を引くだけでなく狩にも参加しました。狩の最中に家臣らの力量を見るとともに、昇進についても参考にしました。 また、狩猟地を作った最大の目的は、北方にいるモンゴルの各族を仮想敵とした国境警護だったのです。
 皇帝が狩猟に出かける時は、一切の公務も狩猟地に移りました。1701年、承徳・熱河にやってきた康熙帝は美しい景観を一目で気に入り、すぐに宮殿建設を決めました。1703年に熱河宮が起工し、康熙帝はデザインなど建設に直接携わりました。5年後に完成に漕ぎ着けた熱河宮は、康煕50年に康熙帝自らが「避暑山庄」と名づけたのです。 避暑山庄は康煕・雍正・乾隆の3代、89年間にわたって使用されました。計約120の建物から構成され、総面積は頤和園が2個分、故宮が8個分に相当します。内部は宮殿区と景観区に分けられ、宮殿区は青レンガと灰色の瓦で中国の北方によく見られる「四合院」のスタイルです。建設当初、康熙帝は「天下の美しい風景を一ヵ所に集め、縮図を作りたい」と願ったため、景観区は湖・平原・山岳の3区域に分類され、それぞれ特色を持っています。 避暑山庄の建設は、周辺の警備強化と一部の少数民族の懐柔も目的の一つでした。康熙帝はほぼ毎年、年の半分を避暑山庄で過ごし、政務処理やモンゴル諸族のリーダー達と接見を行いました。遠くからやってくる少数民族の代表者達にとって、北京まで赴かなくても皇帝に会うことが出来るだけでなく、共に狩猟にも参加し、中央政権との差が縮小されたのです。康熙帝は常に、避暑山庄の重要性について「長城よりも大事だ」と述べていました。
 1711年、康熙帝は避暑山庄にある36の景観すべてに4文字で名称をつけました。40数年後、彼の孫にあたる乾隆帝は36景観にさらに3文字で名称をつけ、合わせて「康乾72景」と呼ばれています。第二次アヘン戦争(アロー号戦争)が勃発した時、咸豊帝は避暑山庄に逃げ込み、ここで不平等条約に調印したほか、ここで息をひき取りました。戦争期間に避暑山庄へやって来たのは、皇帝のご機嫌伺いをする王侯貴族ではなく、北京から逃げ出した貴族たちや惨敗した清兵だけだったのです。出所:中国世界遺産「承徳の避暑山荘と周辺の佛寺」 

関連情報

Copyright 2006 abc0120 All rights reserved.