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始皇帝陵 2007.03.01更新

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始皇帝陵

【和:しこうていりょう
【中:shi huang di ling
秦・漢・三国>始皇帝陵

  秦の始皇帝陵は、西安の東北臨潼県にある。紀元前221年、中国全上を統一した始皇帝は、生存中から陵墓の築造を始めたが、完成はその死後のことだった。陝西省の省都・西安から東へ車を30分ほど走らせると、臨潼というところにつく。ここの驪山風景区は、南は驪山を背にし、北は渭水に臨んでいる。地形は平らで広く、歴史上の帝王が自らの陵墓を築くのに理想的な風水の地であった。広く国内外に知られる秦の始皇帝陵と始皇帝陵兵馬俑はまさにここに存在する。 
陝西省は太古の昔から、中国の歴代王朝の政治と権力の中心として栄えた。西安には周、秦、漢、唐はじめ、実に12の王朝が都を置いている。始皇帝陵は2200年余りの風雨にさらされたうえ、人為的破壊も加わったため、盛土の高さは造営当時の115mから87mに、底部の周囲も2000mから1390mに削られている。現在のところ未発掘であるため、秦の人々の知恵を代表する最も優れた文化の結晶は、今なお深く地下の宮殿に保管されている。秦の始皇帝は中国史上の最初の皇帝であり、シーザーより160年も早かっただけでなく、彼が打ち立てた封建帝国もシーザーが打ち立てた奴隷制帝国より、歴史を一段階超えたものであった。
1974年、始皇帝陵の副葬坑で兵馬俑が発見されて以来、大小さまざまな600以上の副葬坑と100万㎡の地上建築物の跡地が判明し、5万点あまりの貴重な文物が発掘されている。始皇帝陵の調査は今も続いており、今後も新しい発見があるのは間違いない。秦の始皇帝陵の考古学的発見は、一般に公開されている陵園東側の兵馬俑坑と西側の銅車馬はもちろん、盛土の北側と西側の寝殿、便殿と園寺吏舎などの跡地の発見と整理も、陵園の形と構造を研究するために大切な資料を提供している。秦の始皇帝陵はユネスコにより世界人類文化遺産リストに書き入れられた中国最初の帝王の陵墓であり、ここから出土して一般に公開された秦の兵馬俑は、「世界8番目の奇跡」として絶賛され、銅の車馬は青銅器の最高傑作として誉れ高い。
深く地下に造営された宮殿は一体どんな様子であったのかは、今も謎のままである。しかし1981年12月と1982年5月に地質学者が現代の計器を駆使して調査した結果、地下の宮殿には広く水銀が存在していることが判明した。その面積は1万2000平方メートルにも及び、幾何学的分布を呈していることも分かっている。これは『史記』にある「水銀をもって百川の江河、大海となす」、といった司馬遷の記述と合致しており、始皇帝陵に一層の神秘性を添えている。
1978年6月、考古学調査チームは始皇帝陵西側約20mのところでボーリング調査をし、地下7mの地点から一つの金碧に輝く円形の「金節約」、馬頭を飾る瓔珞(ようらく)に付ける金の装飾品を発掘した。この「金節約」の発見により、始皇帝陵の銅車馬副葬坑の考古学調査が本格的に開始されることになる。坑内では、彩色画を施した木製車馬6両と銅車馬6両が発見され、1980年11-12月には考古学者によって更に2両の彩色画が施された銅車馬が発見された。この2両の銅車馬は、それぞれ「秦陵1号銅車馬」と「秦陵2号銅車馬」とナンバーを打たれ、修復を経て始皇帝陵兵馬俑博物館の専門展示場で一般に公開されている。20世紀に発見された青銅器物の中で最も複雑で、最も高く大きいこの2両の銅車馬は、人類の文明史上の奇跡として称えられている。秦の始皇帝は中国を統一すると、自分のための墓の造営に着手した。工事は人数に変化はあったが、総数はエジプトのクフ王のピミラミッドの10万人より更に多く、造営期間も更に長かった。造営に参加した数10万人の兵士のうち、長期間に渡る重労働に耐えられず死んだものは計り知れない。始皇帝陵西側では陵墓の造営人夫の墓も3ヵ所発見されている。
「世界の8番目の奇跡」と言えば、千百年このかた噂に上った7大奇跡ならすぐ頭の中に浮かんでくる。エジプトのピラミッド、バビロンの空中花園、オリンピアのゼウス神殿、ハリカリナッソスのマウソロス王の墓廟、地中海とエーゲ海の間に浮ぶロードス島のアポロン巨像、今日のトルコ領内のエフエソスのアルテミス神殿、エジプト港のアレキサンドリア灯台などである。2000年が経った現在、エジプトの広い砂漠に今なお聳えるギザのピラミッドを除けば、その他の6大奇跡は歴史の移り変わりに揉まれるようにほとんどがその姿を消してしまっている。この点からいえば、新たに世の人々の前に現われ、世界を驚愕させた秦の兵馬俑が、「世界の8番目の奇跡」として認められるのも無理はない。
始皇帝陵の兵馬俑は有名ではあるが、『史記』にわずかな記載がある以外は、史書に記録はなかった。六国を制し、中国を統一した秦王朝の滅亡によって、精巧を極めたこれらの副葬品も一旦は姿を消したが、1974年3月29日、陝西省臨潼県(現在の西安市臨潼区)晏寨人民公社(現在の晏寨郷)に所属する西楊村の村民が旱魃対策として井戸を掘ったときに、幾つかの土俑の破片として掘り出された。世界をあっと言わせた歴史的大発見の序幕はこうして開けられたのである。
1974年、兵馬俑の単体の発見に継ぎ、次々と3つの兵馬俑坑が発見された。1号俑坑の兵馬は行軍または進撃の陣を取っていない。外側を固める弓弩の射手は遠い標的を狙う姿勢を取り、目の前の目標を攻め込む陣形ではなかった。東西南北四隅の兵士もいずれも外を向いている。先鋒あり護衛あり、主体あり両翼あり、歩兵と戦車とが交差して変化に富む。変幻自在にして秩序ある統一した軍陣である。
左軍としての2号兵馬俑坑は、1号俑坑より軍陣が更に複雑である。兵種に戦車、歩兵、騎兵からなる騎兵陣を増やしたほか、兵種の配置にも1号俑坑と異なる。つまり戦車、歩兵、騎兵の陣はそれぞれ独立しているが、互いに組み合わせを変えて様々な連携が取れる陣容をしている。2号俑坑の発掘はイタリアのボンベイ古城遺跡と同じように、発掘しながらそれを修復し、且つ研究と一般への公開を同時に進める方式が採られた。
1号、2号俑坑が軍陣だとすれば、3号俑坑は1号と2号俑坑の軍陣を統率する司令部と言ってよい。1977年の試し掘りと1989年の正規の発掘調査を経て、3号俑坑は形も規格も内容も1号、2号俑坑とは完全に異なっていることが分かった。発掘作業が進むにつれて、3号俑坑のありし日の雄大な陣営が我々の目前に現れた。3号俑坑の入口から東側にある車馬小屋に伸びていく小道がある。車馬小屋の両側にはそれぞれ南北方向の長い廊下がついており、廊下の両端にはそれぞれ1つの脇部屋があった。廊下と車馬小屋が接するところでは、腐蝕した門の上方の横木が発見され、横木の上には等距離で配置された4本の銅の釘が残されていた。これは幕を掛けるためのものと推定されている。南北両側の脇部屋にも門の上方の横木や銅の釘がある。おそらくは千里の外で勝ちを制する戦略を立てる指揮本部であろう。
発掘資料によれば、3つの俑坑には約8000点の兵馬の等身大の俑、100台あまりの木造戦車、数10万点の青銅製の兵器が残されている。無言の兵馬の俑と戦車は、秦代に焼かれたレンガを葺いた床の上に立ち、秦帝国の強大な陣形をとって、秦の輝かしい文明を我々に伝えてくれる。俑坑の発掘はまだ完全には終わっておらず、今も計画通りに着々と進んでいる。
ここ数年、始皇帝陵俑坑の調査と保護は更なる進展を見せている。2号俑坑の完全な彩色跪射武士俑の出土、その整理と保護により、秦の兵馬俑の本来の様子が明らかとなったため、復元も更にオリジナルに近づけることが可能になった。彩色跪射武士俑は、いずれもピンク色の顔立ちで、緑色の衿がついた長衣、緑または深紅の下着を着用しており、2号俑坑出土の彩色跪射武士俑は髪の毛と瞳が黒い1点を除けば、その頭部のすべてが緑色に彩られ塗られていた。何故このような違いがあるのかにはさまざまな説があるが、今は研究の結果を待つのみである。
始皇帝陵兵馬俑坑の土俑は、ほとんどが破片の状態で出土した。これはその製作法の研究には寧ろプラスになっている。考古学者の細心な分析によって、兵馬俑を造った工匠はかなりの数に上ることが分かった。それぞれの工匠の造り方は完全に同じでないが、製造の手順はおおざっぱに次の4つの段階に分けられる。先ず型をつくり、彫塑し、焼成を経て仕上げに彩色するというプロセスである。始皇帝陵兵馬俑の発見は中国と世界の彫刻芸術史上の一大奇跡であり、世界の古典芸術の上で中国を代表する芸術品の出現でもあった。人々はここから2200年余り前の東方の古典リアリズム彫刻芸術の最高峰を知り、中国美術史上には存在していないと長く思われていた分野に新たな一ページが加えられたのである。 出所:中国世界遺産「秦の始皇帝兵馬俑」

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